滝川神社

『みこたん』作中に登場する「滝川神社」の聖地巡礼ガイド

屯田兵村側の旧滝川神社の流れを汲む神社。

滝川神社の鎮守の杜。

 屯田兵村遙拝所跡(二の坂町東四丁目 第二小学校グランド南側)

  (滝川市史跡第二十号 昭和五十二年標柱建立)

 屯田兵の心のよりどころとして、また開拓守護の神として、明治二十三年移住間もなく二の坂東側の小高い場所(現第二小学校敷地)に遥拝所が建立された。はじめは兵村の遥拝所ということであったが、番外地住民の希望もあり、滝川全村の遥拝所として諸神の霊をまつり、村の発展を願ったのである。

『滝川市史 続巻』713ページより引用。

 滝川神社発祥の地(二の坂町西三丁目 灌漑溝用地)

  (滝川市史跡第十一号 昭和四十九年標柱建立)

 明治二十三年、開拓守護の神として二の坂丘上に諸神を祀る遥拝所が建立された。これが滝川神社の前身であり、滝川神社は、明治三十年この碑のある少し下方に本殿が建立された。市街地の発展に伴い、現在の明神町と一の坂町に、二の坂神社の遥拝所がそれぞれ造営されたが、明治三十六年滝川神社を現在地に奉遷し、他の二遥拝所も合祀された。これが、現在の滝川神社である。

『滝川市史 続巻』713ページより引用。

標柱は現存せず、台座と思われるコンクリートが残るのみとなっている。また標柱があったと思われる場所から先は空知幹線用水路が暗渠化されていない。非舗装路で地元の人でも立ち入ることがない場所なので注意。

本殿が建立されたと思われる場所には民家があり、深沢川の近くは低地のため増水時には注意が必要。また二の坂変電所があるため、深沢川の周辺は北海道電力の社有地で立入禁止となっている。

 御手洗(みたらし)川跡(二の坂町東三丁目 滝の川公園内)

  (滝川市史跡第二十一号 昭和五十二年標柱建立)

 屯田兵村遥拝所があった場所は、巨木うっ蒼として深山幽谷と変わらないところであったが、遥拝の祠も建ち、炊煙のにぎわう沃地と拓けていった。遥拝所の東からは清流が流れ、二の坂台地の麓を通り石狩川に注いでいたが、祠に詣でる人は、まずこの流れで口をすすぎ、手を清めたところからこの名が付けられたと言う。

 現在、滝の川公園の中を流れている深沢川の当時の呼称である。

『滝川市史 続巻』713ページより引用。

市街地側の旧滝川神社があった場所。

市街地側の旧滝川神社の流れを汲む神社。

 相馬神社跡(空知町三丁目三番)

  (滝川市史跡第四十八号 昭和六十二年標柱建立)

 神社開設以来百年たらずの中で、これほど多くの変遷のあった神社は珍しい。現在は空知交通神社として、その跡をとどめてはいるが、その縁起は明治三十年に朔るのである。二の坂遥拝所を一の坂に奉遷し滝川神社を建立する問題が紛糾した挙句、市街地有志が諮って明神町一丁目に祠(空知神社)を建てたのがこの神社の発端となる。

 その後、神社問題も円満の裡に解決し、明治三十六年一の坂に滝川神社を建立したため、明神町の社祠は衰微の途を辿ったが、これを遺憾とする有志が集い、私財を投じて明治四十四年に京都伏見稲荷神社の分霊を奉遷し「稲荷神社」と呼称し、遊郭地区を中心に、市街地の一部、空知太・砂川・新十津川方面の崇敬者により運営、隆盛をきわめた。その後、市街地の急速な発展により、憩いの場としての公園設置の必要性から大正初期に移転、相馬妙見中村神社の分霊を合祀して「稲荷相馬神社」とその名前を変えた。

 戦後、諸般の理由から、昭和二十二年「沿岸神社」、更に「沿岸相馬神社」としての変遷があり、最終的には昭和四十一年に、香川県善通寺市の日本一社交通神社の分霊を合祀、空知町三丁目空知自動車学校用地内に社殿建立遷座し、「空知交通神社」として現在に至っているのである。

『滝川市史 続巻』714ページより引用。